読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

はてなブックマーク補完計画

100文字じゃ納まらないコメントを書く

「知性を下げたい」問題の処方箋

 ブックマークに補足。

知能を下げたい

匿名=消さなくてもOK? → 楽しみの発生源=差異=変化=無常 → 最後は飽きる → 次は利己から利他への成長=自他の区別を検討&解決=愛? ヒントamazon:4763198726 ニュー・アース → エックハルト・トール「内なる変革」

2015/04/17 08:10

 

増田の元記事が消えているのでメモ。

 

知能を下げたい - Googleキャッシュ

 

 一切のものが紙に描かれた絵のように思える。人も、価値観も。別に理解されないのは構わないが、配慮されないのは少々つらい。といっても人々が僕に配慮すべきだということも思わない。ただみんなのように何かを信じ、人付き合いに価値を感じ、何かに熱中してゆければそれでよかったのに、と思う。人生に意味が感じられなくとも良い。流石にそこまでは望まない。せめて一瞬の楽しみさえ感じられればそれで満足である。だが任意の感情のセットが、ただそう感じたほうが都合が良いという程度の反応の集まりに過ぎないことを僕は知っているから、そんな楽しみが多少得られたとしてすぐに正気に返ってしまうのだ。残るのはただ虚しさだけである。

 僕はものを考えることができる。考え続けることができる。そうした考え事の果てに、今の状態がある。僕のようになっていない人間はみなものを考えたことがないのだと思う。生物としてはずいぶん不適当な内的状態に陥ってしまったなと思うが、一方ではこれが全き真理だとも確信している。この確信は、善悪や愛に対して人々が抱いているものとはどうやら違うようである。彼らは物事を信じるが信じていることに無自覚だ。僕の確信は徹底的な自覚の先にある何もなさであり、ゆえに何らかの価値観に乗り換えられるようなものではない。もちろん自覚の自覚は際限なく続くものではなくその限界の了解であるから、ある意味では僕は無自覚の信仰を行っているが、しかしその限界の了解に自覚的であるがゆえにニヒリズムに嵌り込んでいるといえるだろう。自分ではどうしようもない状況である。

 人生の幸福とは、いかに適切に騙されるか、ということである。社会的規範を盲目的に信仰しているがゆえに幸福の地平が開かれる。宗教とはそれを明示的に行う仕組みであり、ゆえにすべての人間は宗教的であるといえる。無宗教の人は信仰先を分散してリスクマネジメントを図っているに過ぎない。考えればすぐに思い至るようなことだけれど、多くの人々はこのことを無視している。頭が悪いから、思考を続けることができないから、そうした虚無への接近を免れている。僕は心から彼らを羨ましく思う。僕は馬鹿になりたい。何も考えられなくなりたい。しかし、考えた記憶は残るだろう。だからそれも消してしまいたい。何もわからない頭でただ幸福を享受したい。他の多くの人々と同じように。

 人工知能の反乱はSFでしばしば描かれるテーマだが、あまり気にすることもないと思う。人間より賢い知性はそもそも生きることに耐えられないだろうから。そしてそろそろ僕も耐えられない。さようならさようなら。地球に生えた苔のようなものたち。

(追記)

 煽るような書き方をして不快にさせてしまったならすみません。しかし、多くの人に(率直に)意見して欲しかったのです(匿名はてなに書き込むのははじめてだったのでこれで反響が得られるかは不安でしたが)。正直な話、この行き詰まりがすべて僕の知能の結果だとは思っていません(発達障害を疑いWAISを受けたことがあり、結果は上に異常値でした)。ただこの虚無感だけは本物です。だから、だれでもいいのでこの閉塞を否定してください。「大人になるにつれ考えなくなった」というような意見はいりません。これを中二病だと笑うのであれば、誰にでも(僕にでも)理解可能な仕方で論破してください。切実に待っています。

(追追記)

 身体的な幸福を無視しているという意見を幾つか頂きました。運動をしろ、瞑想をしろというのも似た観点からの指摘でしょう。僕自身、散歩をすることが好きですし、ものを見ることが好きです。楽器もたしなみます。ときどき瞑想をし、自分の心を観察してみたりもします。けれどそれらは根本的にはこの虚しさを消してはくれませんでした。いつか自分は死んでしまうのだという気持ちがあり、また我々はたかが有限のパターンにすぎないという考えがあるからです。友人と過ごすのが楽しいとか、ご飯が美味しいとか、そういう感情のセットだって、生物の生存のために備え付けられたある意味外的な装置です。自分ではない。「それは自分である」ということができる程度のものでしかない。もちろん「だからこそ」人生を謳歌しようという思想があるのは知っています。僕もかつてはそう考えようと務めてきました。けれどやっぱりそれすら一つの信仰ではないかと思えてしまう。だって根拠がないのですから。理由なんてないのですから。理由がなくてもやってこそ人間だろうという反論があるかも知れないけれど、そういう人には穴を掘っては埋めることの繰り返しをやってみて欲しい。きっと虚しくなるだろうと思います。仮にそれによって多少の快楽が得られたとしても、です。

 ひたすら瞑想をして悟りに至れば良いのでしょうか。しかし今の日本にそんな悟った人間の生きる余地があるのでしょうか。

 

人生が味気ない、一般的に楽しみと言われている事が楽しいと感じられない、という感性って確かにあるよなー。

 

この手の問題を抱えている人って、自他の区別=これが自分だと思っているもの=エゴ(自意識)についての検討が甘いからじゃないかなー? 

この辺りの問題は、エックハルト・トールが指摘しているんじゃないかな?

(俺は、この人の思想にあまり興味ないけどw)

 

Amazon.co.jp: ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-: エックハルト・トール, 吉田 利子: 本

 

エックハルト・トール - Wikipedia

ロンドン大学を卒業後29歳で「内なる変革」を経験するまでは、人生の大半を落ち込んで過ごしていたという。その後数年間、無職のまま「深い喜びの状態」で彷徨って過ごして、後に精神世界の指導者となった。

内なる変革
1977年のある夜、29歳の時、長期間に渡り自殺を考えるほどの抑鬱に悩まされた後、トールは「内なる変革」を経験したという。その夜、彼は眠りから覚め、「ほとんど耐えられないほどの」鬱に苦しんでいたが、その時、人生を変えるような至福を味わった。この時のことを思い出して本人が語る様子は以下の通りである。

私は、もうそれ以上自分自身と生きることが出来なかった。そして、答えのない疑問が生じた。自分と生きることが出来ないこの「私」は、一体誰なんだ?自分とは何だ?私は虚空へと吸い込まれるように感じた。その時は、一体何が起こったのか知らなかったが、満たされない過去と恐ろしい未来との間に生きている、思考が作り出した自我が、その重苦しさ、その抱える問題と共に、崩壊したのだ。翌朝、目が覚めてみると、すべてが実に穏やかだった。この平安は、自我がそこに無かったために現れたのだ。ただ存在の感覚のみ、あるいは「在ること」、ただ観察し見守っているだけだ。

次の朝、彼はロンドン市内を散歩したが、「すべてが奇跡のようで、深く穏やかだった。車の往来さえも。」この感覚は持続し、彼はいかなる場面でも、そこに潜む平安を強く感じとるようになった。 トールは博士号のために勉強をするのを辞め、ほぼ二年間に渡り、ほとんどの時間を「深い祝福に満たされた状態で」、ロンドン中心部のラッセル・スクウェアの公園のベンチに座って、「世界が移ろいゆくのを見て」過ごした。彼は友人のところに居候になったり、仏教寺院に泊まったりしたが、それ以外はハムステッド・ヒース(Hampstead Heath)でホームレスとして野宿もした。家族は彼が「無責任で、かつ正気を失った」と思っていた。

 


 

別に楽しみを求めて生きる以外にも、生きる目的は自由に設定できると思うけど、想像力が豊かではない人は、他の目的を思い浮かばないんだろうなー。

 

つまり、自分のことしか考えてないから、他のことが見えていない、分からない、と?

 

「人の振り見て我が振り直せ」~俺も、「自分の人生がつまらない」と感じるときがあったら、「自分のことしか考えていない」という状態に陥っていないか?チェックしてみよう。